引揚げ港・博多を
考える集い

引揚げ港・博多を考える集いについて
「引揚げ港・博多を考える集い」とは
戦後の一時期、わずかな期間であったが博多港が引揚港として、「国家的重大使命」を引き受けていたことを知る市民は多くない。理由は引揚げが行われた当時、博多港から博多駅に通じる大博通り一帯は、1945(昭和20)年6月19日の福岡大空襲で一面の焼野原になっていて、引揚者を目撃した市民がほとんどいなかったからである。引揚者自身もあまりにも辛かった引揚げの体験は、思い出したくない出来事であり語りたくなかったであろう。
そのような中で博多港に引揚モニュメントの建設を最初に訴えたのはかつて引揚船船長の経験を持つ元福岡海上保安部長の糸山泰夫氏である。同氏の提言は1987(昭和62)年9月30日付の西日本新聞「地域からの提言」欄に「博多港に『引揚平和記念碑』を」のタイトルで掲載された。福岡市役所に勤務していた堀田広治氏は、旧博多部の活性化をテーマに選んだ1990(平成2)年度の政策課題研修で「博多港に引揚平和記念象の建設」を提言するが、当局からは何の反応もなく無力感に陥っていた。
この2人が1991(平成3)年5月に出会い、「直接市民に訴え市民運動でこの願いを実現させよう」という意見で一致した。その後市民に呼びかけ1年後に「博多港引揚平和記念象の建設を進める集い」を開き、博多港の引揚げの史実を報告し、モニュメントの建設へ向けての取り組みを協議した。この時の参加者は20名だったが、これが「引揚げ港・博多を考える集い」の出発点となった。その後活動は学習会、会報の発行、署名活動へと大きく広がっていった。これまでの主な取り組みは次の通りである。
・「例会」の開催
・署名運動と請願書提出
……1996(平成8)年3月 博多港引揚モニュメント「那の津往還」建立実現
・写真展開催
・引揚記念植樹
・博多港引揚懇親会
……博多港開港100周年に合わせて実施、211名参加
・水子地蔵供養祭
……毎年5月14日に元二日市保養所・水子地蔵前(現特別養護老人ホームむさし苑)参加
・出版活動
……「戦後50年引揚げを憶う」1955年、
「戦後50年引揚げを憶う(続)~証言・二日市保養所」1998年、
「米軍が写した終戦直後の福岡県」1999年、
「写真集 博多港引揚」2011年、
「写真集 あれから70年」2017年、
「あれから73年」2018年、
会報「引揚げ港・博多湾」不定期
引揚げの歴史

戦後引揚とは
アジア太平洋戦争の敗戦時(1945年8月)における海外の日本人の総数は、政府自体も戦後の混乱のなかで正確に把握できていなかったが、軍人・軍属と民間人を合わせおおよそ700万人ていどとみられている。
当時の日本の人口およそ7200万人の約1割が、アジア各国に進出していた軍人・軍属や民間人として展開していた。このうち民間人はほぼ350万人であったとされている。
敗戦とともにこれらの人たちは祖国日本に帰国することになる。軍人・軍属の場合は復員と呼ばれポツダム宣言(※1)により帰国は保障されていたが、現地で暮らしていた民間人は、帰国の保障はなく、8月15日を境に宗主国の国民から敗戦国の国民に転落することになった。
当然のことながら、現地住民からは招かれざる客として敵視され、厳しい対応を迫られることになる。このような混乱状況の中で生活手段までなくした日本人が、残留することは不可能であった。
しかし引揚船として利用できる船舶は圧倒的に不足しており、日本政府は当初「民間人は現地定着」の方針をとった。その後現地の悲惨な状況が分かってきたため、GHQ(連合軍総司令部)に船舶の貸与を要請する。連合国兵士の祖国帰還終了後の1946年春以降になって、米国等からLST(大型上陸用舟艇)85隻、貨物船100隻、病院船6隻、計191隻の貸与を受け、引揚げを軌道に乗せることが出来た。引揚げは困難を極め、特に満州開拓団(※2)は死をかけた逃避行のすえに10万人に及ぶ犠牲者を出している。
※1 ポツダム宣言
日本の敗戦間近の1945年7月26日、ドイツ・ベルリン郊外ポツダムにおいてアメリカ、イギリス、ソ連(現ロシア)の首脳により日本に対し発せられた降伏要求の宣言
※2 満州開拓団
1931年の満州事変後、国策としてこの地域(中国東北部、内モンゴル地区)に農業従事のために移民させられた人たち。約27万人の開拓団は終戦間際のソ連軍の侵入や引揚げの途上で多数の死傷者を出した。

博多港における引揚げ
全国の引揚援護局(※3)がまとめたところによると、民間人の地域別引揚者数は旧満州から約103万人、朝鮮から72万人、中国から49万人など全体で320万人となっている。
厚生省は全国に18の引揚援護局を設置した。博多港は大陸に近く港湾の設備もまずまず機能していたので引揚港に指定され、引揚援護局が置かれた。博多港には139万人余りが引揚げ、佐世保港と共に日本最大の引揚港となりその役割を果たした。
釜山から約200キロの距離にある博多港には援護局が設置される(1945年11月24日)前から、漁船をチャーターして帰国した人たちはカウントされておらず、元引揚船の船長を経験した糸山泰夫氏(故人)によると、このようないわゆる闇船での帰国者は20万人を下らないとのことである。
博多港の特徴は引揚者の受け入れだけでなく、日本にいた朝鮮人等50万人余りを祖国に送り返したことである。
博多港は援護局が置かれた1946年11月から1948年4月までのわずか1年半足らずの間に200万人が交差する民族大移動の拠点となり、多いときは1日1万人以上が往来した。当時、日本の労働不足を補うため強制連行などで日本にいた朝鮮人は、博多港に行けば祖国に帰れると聞き、博多に来たものの諸般の事情からそのまま博多に居ついた朝鮮人も少なくない。
福岡市が、福岡市史普及版として1979(昭和54)年に発行した「福岡の歴史」には、博多港引揚げについて「博多港は港の全機能を発揮して、国家的重大使命を果たしたのであった」との記述がある。1996年博多港中央ふ頭に博多港引揚モニュメント「那の津往還」が建立された。
※3 引揚援護局
1945年8月の敗戦時、引揚者に対する管理とともに応急援護業務や検疫を実施するために主な引揚港に設置された。
あれから七十五年
戦後引揚と援護、二十三人の体験記
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出版年月:2020年10月
出版社:図書出版のぶ工房
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