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福岡に歴史を伝える平和資料館の創設を

  • 引揚げ港・博多を考える集い
  • 2021年1月10日
  • 読了時間: 11分

更新日:2021年4月1日

1、引揚資料館設置の取り組み ― 「引揚げ港・博多を考える集い」の28年間

 最初に「引揚港・博多を考える集い」の紹介とこれまでの取り組みの経緯について紹介させていただきます。

1945年8月の敗戦時の日本の人口は約7千200万人ですが、そのほぼ1割に相当する700万人がアジアの各国に進出していました。いまの日本の人口は1億3千万弱なので、1300万人もの日本人が海外に展開していたことになります。

 終戦当時海外にいた700万人の約半数は軍人・軍属で残り半分が民間人でした。軍人・軍属はポツダム宣言で日本への帰国が保障されていましたが、民間人は招かれざる客として追い返される立場に転落し、満州や北朝鮮ではソ連の参戦もあり命がけの脱出行となりました。

 その当時、博多港は大陸に近く港の機能も破壊されていなかったので139万人余りの引揚者を受け入れると同時に、当時日本の労働力不足のため朝鮮から徴用されていた人たちなど50万人余りを祖国に送り返しました。わずか1年半足らずの間に、博多港は多い日は1万人が往来する民族大移動の拠点となっていたのでした。

 福岡市が市政90周年記念として出した「福岡の歴史」(1979年10月)には「当時博多港は港の全機能を発揮して、国家的重大使命を果たしたのである」と記述されています。

 「引揚港・博多を考える集い」は、忘れ去られようとしている博多港の引揚げの歴史を通して戦争の悲惨さや平和の尊さを次の世代に引き継ぐため、29年前(1992年)に有志が集まって会を結成し、博多港に引揚モニュメントの設置や引揚資料の展示場、学校教育の場で博多港引揚げの歴史の教授すること、引揚げ語り部の養成、博多港引揚げの日の制定などを福岡市に要請してきました。

 これらの要求のうち、1996年3月には中央ふ頭に引揚モニュメント「那の津往還」が設置され、2011年11月には引揚資料の展示場が市民福祉プラザのホール横のコーナーに「資料展『引揚港博多』〜苦難と平和への願い〜」が開設されました。また2018年度以降、中学校の人権読本「ぬくもり」に博多港の引揚げの歴史が取り上げられています。

 このうち、引揚資料の展示は3年に1度展示品の更新をする約束であったにもかかわらず9年になるのに(2011年11月開設)まだ1度も展示品の入れ替えを行っていません。そこで世話人会では戦後75年を経て戦争を知る世代の高齢化が進んでおり、戦争の歴史の継承が不十分であることに着眼し、1945年6月19日の福岡大空襲の歴史や人類史上初の原子爆弾がヒロシマ・ナガサキに投下された歴史を合わせた平和資料館の設置を求める運動を、志を同じくする団体・個人と共に幅広く進めていくことにしました。


2,6.19福岡大空襲の歴史を引き継ぐ

 米軍の日本本土への空襲は、1944年6月に始まり8月15日の終戦当日まで続きました。沖縄を除き全国200以上の都市が被災、被災人口は970万人に及び全戸数の約2割に当たる約223万戸が被災しました。死者数は最小の24万人から最大100万人までとばらつきがあります。都道府県ごとに集約した数の合計では562,708人となっており、ほぼ50万人程度が定説とされているようです。

 マリアナ諸島を出発したB29爆撃機221機が1945年6月19日の深夜約2時間にわたり、福岡市上空に焼夷弾を投下しました。博多や天神を中心に爆撃を受け東西は御笠川から樋井川まで、南北は博多湾海岸線から櫛田神社、大濠公園までの一帯が被災、当時の福岡市の3分の1を焼失しています。とりわけ奈良屋、大浜、冷泉、大名、簀子の5校区の被害が激しく死傷者の9割を占めました。

 具体的な被災内容は、罹災面積 3.78平方キロで、罹災戸数は12,856戸(市内の33%)、罹災者数は 60,599人で死者数902人、負傷者数1,078人、行方不明者数244人と記録されています。

 福岡大空襲の死没者と引揚途上で亡くなった人の冥福を祈り、恒久平和への誓いを新たにするため、1965年の6月19日(福岡大空襲から20周年)に博多区の冷泉公園に戦災死没者慰霊塔が完成。以後毎年この日に「福岡市戦災引揚死没者追悼式」(福岡市社会福祉協議会主催)が実施されています。また戦没者と福岡大空襲などの戦災死没者を追悼し、恒久平和の誓いを新たにするため、同日「福岡市戦没者合同追悼式」(福岡市主催)が市民会館で時間をずらして行われています。                        


3、ヒロシマ・ナガサキと核兵器禁止条約

 ヒロシマ・ナガサキに人類史上初の原子爆弾がさく裂して76年を迎えます。しかしこの間日本政府は自国の安全保障を、こともあろうに米国の「核の傘」に入ることで守るという選択をしました。「核抑止論」では核兵器を地上からなくすことはできません。核兵器があっても現に世界各地で起きている戦争をなくすことはできず、この「核抑止」の理論はとっくに破綻しているにもかかわらず、日本政府の立場はいまだに「核廃止」ではなく「核必要論」に固執しています。

 1917年7月、「核兵器廃絶」の国際世論の高まりのなか国連総会で「核兵器禁止条約」が成立し、3年余りを経た昨年10月24日条約発効に必要な50ヵ国・地域の批准が行われました。これによって禁止条約は90日後の1月22日に発効し、核兵器を非人道的で違法と断じる初の国際規範が生まれます。この条約により核兵器の開発・実験・製造・所有・使用または使用の威嚇、配備などのすべてを全面的に禁止されることになります。

 ところで現在世界にはロシアに6372個、米国に5800個をはじめ13400個余りの核兵器が存在しています。核兵器禁止条約の発効は、核兵器廃絶に向けて「重要な一歩」ではありますが、米・英・仏・露・中の五大保有国は条約に反発、イスラエル・インド・パキスタン・北朝鮮も参加しておらず、核廃絶へ向けての運動はその一歩を踏み出したに過ぎないとも言えす。

 これまで日本政府は、条約への参加を拒む理由として、この条約が核保有国の理解をえられておらず国際社会に分断をもたらすなどと主張しながら、核保有国・非保有国の「橋渡し」に努めるとしてきました。しかし国連加盟国の圧倒的多数である122ヵ国が賛成した核兵器禁止条約の発効が確定し、この欺瞞に満ちた「橋渡し」論は事実上、核兵器の存在を恒久化する「究極廃絶」論は破綻を迎えています。

 そもそも日本政府の本音は「橋渡し」などというもではなく、米国の核抑止に同調し、さらに強化を促すことにありました。

 加藤勝信・官房長官は、昨年(2020年)10月23日の記者会見で核兵器禁止条約の「署名はしない」と述べたうえで「日米安保体制の下で、核抑止力を含めた米国の抑止力を維持、強化していく」と明言しています。しかし、いま日本政府に求められるのは一刻も早く核抑止の呪縛から抜け出し、核兵器禁止条約に署名することです。日本が署名することによって、核の傘に入っている諸国の批准に大きな影響を与えることになります。国の安全保障は、軍事力ではなく外交力で進めるべきです。


4、加害の歴史を学ばない日本

振り返ってみると、1945年8月の敗戦を境に日本は、大日本帝国から平和と民主主義を基調とする国家へと生まれ変わったことになっています。

 しかし、その時、アジアに対するそれまでの侵略戦争や朝鮮に対する植民地支配等についてのきちんとした総括は国民としても政府としても極めて不十分なままでした。このため戦前と敗戦後の日本の間には歴然たる継続性があります。戦前の日本において絶対的な存在であった天皇は、米軍の占領政策に利用され、新憲法のもとでも権限のない象徴という立場で温存されました。

 この戦前から戦後の継続性については、日本人が過去を検証する上で、大きな障害になっています。日本で「戦争に対する反省」をいうとき、アジアにおける被害者よりも、原爆や空襲の犠牲者や、軍部の無謀な作戦によって戦死したり餓死した日本兵らを追悼することが中心となっています。自分たちが被った「被害」が、自らの国の侵略戦争の結果、もたらされたという認識が弱いばかりでなく、その侵略戦争がアジアの諸民族にどのような被害を与えたか見ていませんでした。

 いま、私たちに求められている歴史認識は、台湾・朝鮮の植民地支配に始まり、中国への侵略戦争、そしてアジア・太平洋各地への侵略戦争にいたる「アジアへの侵略」をきちんと見据え、日本のありのままの近現代史をとらえなおすことであると思います。

 しかし、日本政府は、教科書検定制度の下で日本の「負の歴史」を学校教育で教授することを避けてきました。ヒロシマ・ナガサキで戦争の被害の歴史は教えることはあっても、日本の過酷な植民地支配や侵略戦争の歴史を教えることには消極的であったというよりほとんど教えようとしなかったといえます。

 いま、日韓関係が元徴用工に対する一昨年の韓国最高裁判決以来、両国政府の関係が最悪の状態になっていますが、韓国独立後の1951年10月から始められた日韓国交回復のための交渉も難航しました。その原因のひとつは日本側首席代表が、かつて日本が朝鮮を植民地支配したことに関し、「日本は朝鮮に対して鉄道や港を造ったりいいこともした」(久保田発言)と発言し、韓国側が抗議して4年間も会談が中断しました。日本政府の植民地支配に対する認識の程度をよく示しています。これは新聞等で報道されたにもかかわらず、国民からはさほどの批判の声も出ませんでした。

 日本のオリンピック委員長を務めている森喜朗氏は、かつて首相をしていた当時「日本は天皇を中心とした神の国である」と発言したことがありました。

 日本とドイツは第2次世界大戦で、同盟国として隣国などを侵略し多くの人を被害を与えました。そしてともに敗戦を経験した両国は、その後共に目覚ましい経済成長を成し遂げ、日本は1910年に中国に抜かれる迄は、アメリカに次ぐ世界第二の経済大国となり、ドイツはEUを牽引するヨーロッパの大国となりました。

 しかし「過去の克服」という視点で考えるとこの両国はきわめて対照的であるといわなければなりません。ちょっと古い話になりますが、敗戦から40年目を迎えた1985年の終戦記念日にこの両国のリーダーが何をしていたか振り返ってみたいと思います。

 当時日本の首相は中曽根康弘氏でした。敗戦40年に当たる1985年8月15日には「戦後政治の総決算」を掲げてA級戦犯が合祀されている靖国神社に、首相として初めての公式参拝を行います。この公式参拝に合わせて「国家・国民は汚辱をすてて栄光を求めて進む」とのタイトルで演説を行いました。そこにはかつての戦争が侵略戦争であり、2千万人ものアジア諸国民を殺戮した戦争であったことに対する反省のひとかけらも見られません。当然のことながら、この首相の靖国参拝にはアジア各国から猛烈な反発を招き、中曽根首相は2度と靖国神社を参拝することは出来ませんでした。

 他方、西ドイツの当時のワイツゼッカー大統領は何をしたか。ドイツが降伏したのは日本より3カ月ほど早い5月8日ですが、この日ワイツゼッカー大統領は「荒れ野の40年」という演説を行いました。その中に次のような一節があります。

「問題は過去を克服することではありません。そのようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起らなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです」。

 これより前、1970年には、西ドイツはポーランドと国交正常化を果たしますが、当時のブラント・西ドイツ首相は、ワルシャワのユダヤ人ゲットー(ユダヤ人強制収容所)跡地の記念碑の前にひざまずいて犠牲者の霊に謝罪しました。翌年、ブラント首相はノーベル平和賞をもらっています。ブラント首相の後を継いだシュミット首相(1974年5月~1982年10月)は、日本の雑誌「世界」1986年11月号に寄稿した論文「友人を持たない日本」で、第二次大戦の非を認めない日本は世界に友人を持たない、と次のように批判しています。

 「日本はアジアにもヨーロッパにも、ごく親しい友人や同盟者を持たない。中国との関係、ASEAN諸国や韓国、台湾との関係は正常ではある。しかし、日本はいかなる国とも欧州共同体の加盟国同士、または欧州諸国と米、カナダとの関係に比べられるような緊密な関係を持っていない。何百年もの戦争の後のフランスとドイツだけでなく、すべてのヨーロッパ諸国は今や互いに極めて密接な関係にある。ところが日本は、それほどの関係をどこの国とも持っていない」「ドイツ人はその最近の過去と、また未来について厳しく分析する必要があると痛感した。突っ込んだ自己検証を行い、その結果、自己の非をきちんと認めるに至った。ヒトラーの支配に苦しめられた近隣諸国にも、そのことをだんだんと分かってもらえた。しかし、日本がこうした自己検証をしたとか、それゆえ、今日の平和日本を深く信頼して受け入れるとか、東南アジアではそんな話はまるで聞かない」。


5、平和資料館設置の必要性

 福岡市に設置する平和資料館には、かつての戦争が福岡市に及ぼした博多港の引揚げや大空襲の歴史そして福岡は広島・長崎に次いで被爆者が多い街でもあります。このような福岡の戦争にまつわる歴史とともに、日本の近代史の加害の歴史も被害の歴史も含めた資料館として、私たちみんながしっかりした歴史観を学び、次の世代に引き継いでいくことができる平和資料館の設置が強く求められる。

 さらに付言すれば、未来をどうつくるかの営みは、過去をどうみて、その過去を生かし反省するところから始まります。過去から切り離されたところに現在も未来もないのです。歴史的事実を直視せず、見たくない事実をなかったことにしたり、歴史に対する反省を「自虐」などと揶揄したりすることは、結局のところ歴史から何を学ばず、数知れない犠牲者の命と被害者を無視する行為につながります。

 歴史から教訓を学ばない歴代政権の延長線上には国際社会の中で孤児になるしかないでしょう。また憲法前文に書かれているような「国際社会において名誉ある地位」を占めることはできないでしょう。(2021年1月10日記、堀田広治)

 
 
 

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