はじめに◎海外で暮らした日本人たち
- 引揚げ港・博多を考える集い
- 2020年1月28日
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1-1 日本の海外侵出
日本は明治時代(一九六八〜一九一二年)以降、国際的な戦争を行ってきました。日清戦争に明治二十七年(一八九四)、日露戦争に明治三十七年(一九〇四)、第一次世界大戦(シベリア出兵)に大正三年(一九一四)参加しました。そして海外に「台湾総督府」を明治二十八年(一八九五)、「朝鮮総督府」を明治四十三年(一九一〇)に統治官庁を置き、明治三十九年(一九〇六)には「南満洲鉄道株式会社(満鉄)」を設立しました。
昭和に入ると日本は、中国大陸に「傀儡政権」(実質的には、他国の意思に従い統治を行う政府)である「満洲国」を昭和七年(一九三二)に建国し、「二十ヵ年百万戸送出計画)」という大規模な日本人(特に農業従事者)の海外移住を国策として進めました。
各地の民族運動による抵抗にも関わらず、侵出を続けたため戦争が続き昭和十二年(一九三七)に日中戦争、昭和十六年(一九四一)には第二次世界大戦の参戦と、戦地は中国大陸・東南アジア・太平洋へと拡大しました。こうして、大勢の日本人が海外で生活することとなったのです。
1-2 釜山港からの出発
撮影◆元釜山日本人世話会職員 三宅一美
博多港には、朝鮮半島からの復員者・引揚者、合計約四五万人が上陸しました。
戦後、食物をはじめ物資不足の中、写真のフィルムは大変貴重でしたが、「釜山日本人世話会」で引揚者の援護を行っていた三宅一美氏(一九一五年生〜二〇〇九年没)は、当時の釜山港の様子を撮影しました。
三宅氏は、「京城」(現ソウル)に生まれ、戦前は「朝鮮電業」に勤務した引揚体験者ですが、釜山港に到着後、今度は引揚邦人の帰国を手伝う団体「釜山日本人世話会」に自ら進んで一員となりました。
三宅氏は、引揚の事実を後世に伝えるため、個人的に写真撮影を行ったのです。
1-3 終戦から引揚へ
海外からの引揚者が初めて踏んだ日本の土地・博多は、一面の焼け野原でした。海外から博多港への引揚・復員、また博多港からの朝鮮半島や中国大陸など海外への送出、引揚援護活動、そして「あれから七十年」博多港引揚を考えます。
福岡市の戦災
福岡市では、第二次世界大戦が終わる約二ヵ月前の昭和二十年(一九四五)六月十九日夜、福岡市
は大きな空襲(連合国軍の飛行機による爆弾投下などによる地上攻撃)にみまわれました。そのため、福岡市の天神・博多地区を含む市街地は大きな被害にあい、多くの人々が亡くなりました。
北九州市の戦災
現北九州市の八幡地区は三回の大空襲に見舞われました。昭和十九年六月十六日の未明(罹災者三〇〇人、死傷者八〇人)、同年八月二十日は昼に空襲を受けました。約一年後の二十年八月八日昼の大空襲では罹災者五二五六二人、死傷者二九〇〇人の被害を受けました。八幡の市街地は、この三回の焼夷弾中心の空襲によって、大変な罹災状況での被害でしたが、線路を挟んだ「八幡製鉄所」などの工業地帯は軽微という状況でした。
久留米市の戦災
久留米市の空襲は、昭和二十年八月十一日の十時頃、最初にP38ほかの米戦闘機による空襲に始まり、十時半頃にはB29ほか爆撃機の合計で約一五〇機による焼夷弾による爆撃で、罹災者約二〇〇〇〇人、死傷者二一四人。罹災戸数は四五〇〇戸で被害面積は市街地の七〇%にのぼりました。
高杉志緒、『[九州アーカイブズB]あれから七十年』、図書出版のぶ工房、2017年
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