引揚・復員◎海外から博多港へ
- 引揚げ港・博多を考える集い
- 2020年1月28日
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六六〇万人の海外邦人
昭和二十年(一九四五)八月十五日、第二次世界大戦が終わった時、約六六〇万人の日本人が海外にいました。その内訳は、戦争に直接従事した軍人・軍属が約三三〇万人、一般の人々が約三三〇万人とされています。
軍人・軍属が日本にもどり、その役を解かれる「復員」は、日本降伏のための定義・規約である「ポツダム宣言」第九条という法的根拠に基づいて行われました。
しかし、海外の一般邦人に対し、終戦時の外務省は、できるだけ現地に定着させる考えでした。
その後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、人道的な見地から引揚援護政策を行うこととし、昭和二十年(一九四五)十月十八日、厚生省が「引揚に関する中央責任官庁」に指定されました。その翌月、十一月二十二日付勅令第六五一号「地方引揚援護局官制」に基づき、同月二十四日「厚生省博多引揚援護局」が設置され、
昭和二十二年(一九四七)四月三十日の閉鎖までの約一年半の間、活動を行いました。こうして約七十年前、博多港は約一三九万人の日本人が上陸する「復員」と「引揚」、朝鮮半島や中国などの海外へ戻る約五十万人が出発する「送出」、双方を担う「アジアの玄関口」としての役割を果たすことになったのです。
引揚港・博多の風景 —復員と引揚—
軍人・軍属の復員は、昭和二十年八月ポツダム宣言(第九条)に記されていました。但し、一般邦人についての明文がなかったため宣言受諾時、外務省は邦人を現地に定着させる方針を取りました。 しかし、同年十月十五日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、引揚援護港として博多港を指定し、同月十八日、厚生省を中央責任官庁に指令しました。これを受けて厚生省は、翌月十一月二十四日、全国一八カ所の地方引揚援護局の一つとして「博多引揚援護局」を設置し以降、昭和二十二年(一九四七)四月三十日の閉局までの約一年五ヵ月の間、邦人が博多に上陸する「復員」「引揚」と外国人が出国する「送出」の援護活動を行いました。
「満洲」から博多港へ—命がけで日本へ—
戦後の混乱期、軍人・軍属と違い、組織を持たない一般の人々が遠い海外から日本へとたどりつくことは、長い苦難の道のりでした。博多港に上陸した引揚邦人約一三九万人の内訳は、「満洲」から五十八万人、朝鮮半島から四十五万人でしたが、特に「満洲」(中国東北部)からの引揚は困難を極めました。
「満洲」地域の開拓者、約二十七万人の内、約五万人の壮年男子(十七〜四十五歳)は、昭和二十年(一九四五)六月以降、ソビエト連邦国境警備のため「根こそぎ動員」され、同年八月九日、ソ連参戦により多くの人々が戦死や抑留に至りました。そのため戦後、「満洲」からの引揚は高齢者・幼児・女性が大半を占めました。
その上、ソ連軍の管区となった「満洲」や朝鮮半島北部は、北緯三十八度線が占領分割線として封鎖され、一般邦人の南下は禁止されたため、引揚は命がけの逃避行となったのです。
連合国(米国軍、中国国民党)の管轄下にあった葫蘆島港(現遼寧省葫蘆島市)を出発地とした引揚船の博多港初入港は、終戦から七ヵ月後の昭和二十一年五月十五日でした。
高杉志緒、『[九州アーカイブズB]あれから七十年』、図書出版のぶ工房、2017年
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